30年ぶりのウィーン:Vienna

ベルヴェデール

プラハの駅から特急列車で4時間。昨年末に30年ぶりのウィーンを訪れた。運河沿いの灯り、クリムト、ワルツ、シュテファン大聖堂、シェーンブルン宮殿。音楽と芸術やハプスブルク王家の物語が、石畳にまで刻み込まれたこの街を訪れたあのときの震えが甦ってくる。初めてのヨーロッパ旅行。ドイツのボン、ベルリン、スイスのジュネーヴを経て、最後の目的地がウィーンだった。地元の人の話から、まるでモーツァルトやシューベルトがそこに佇んでいるかのような錯覚に陥るほど、日常の中に歴史が息づいていた。コーヒーがとてもおいしかったのも覚えている。学部時代に交換留学で過ごしたアメリカや、留学中に訪れたカナダ、メキシコといった北米の国々とは異なる文化に触れ、見るものすべてが新鮮だった。

クリムト

1985年は国連が定めた国際青年年で、27歳だった私は、当時の総務庁が募集した青年海外特派員に選ばれて2週間の調査派遣事業に参加した。いくつかのグループに分かれ、世界の青年を取り巻く課題を調査するという企画で、私はドイツ語圏を中心に政府機関や国際機関を訪問するグループだった。海外派遣プログラムの参加者は全体で60名ほどいたかと思う。男女はほぼ半々で、女性で結婚していたのは私だけ。周りからは、夫の理解があって羨ましいとか、2週間も家を空けるのをよく許してもらえたねといった反応があり、そんなことをまったく考えたこともなかった私は、世の中はそういうものなのかという程度で受け止めていた。その数年後に、アメリカのビジネススクールに単身で留学するときも同じような反応だったが、留学は約2年と長いのでなおさらだったのかもしれない。30年前だからというならわからなくもないが、今でも、地域活動をしていながら、夫の帰宅までに家に戻らなくてはという女性たちは結構いる。時間の使い方を自分で「選ぶ」ということを、お互いに認め合い、支え合うことも、自分らしい人生を生きる大切な要素だと思う。

ドイツでは、日本大使館のあるボンと、東西ドイツを隔てる壁が崩れる前のベルリンを訪ねた。1989年のベルリンの壁崩壊のニュースは、アメリカのビジネススクールに在学中に届き、同じ教室にいたドイツ人の学生が歓喜していたのを思い出す。ジュネーブとウィーンはいずれも国連がある。オーストリアが1955年に主権国家として独立を回復した際、当時の首相がウィーン国際センターの建設を提案し、ウィーンをニューヨーク、ジュネーヴに次ぐ第3の国連都市にすることに成功したという。社会科の教科書でスイスとオーストリアが永世中立国だと学んだときは、「平和で穏やかな国」のイメージしかなかったが、まだ冷戦下のヨーロッパで、ジュネーヴの空港で見た軍隊の様相や、オーストリアが第二次大戦後の地勢を考えて生き残るための選択肢だったことなど、その場に行ってみて感じることはやはり違うものだ。ジュネーヴではILO本部も訪問し、日本人スタッフと直接話すことができた。当時に比べると、今は国連などの国際機関で働く日本人も増えたが、もっともっと日本人に活躍して欲しいと思う。

30年前のヨーロッパで若者が抱いていた将来への不安は、ロボット化が進み、自分たちの雇用が奪われてしまうことだった。果たして、2008年の世界的な経済危機以降、EU加盟国の若者の失業問題は深刻だが、私たちが訪れたドイツ、オーストリアはEU加盟国の中で飛びぬけて優等生なので、今も失業率は高くない。他のEU加盟国で若者の失業率が高くなっている背景には、ロボット化というより、やはり経済のグローバル化がある。仕事が海外に流出したり、安い労働力が国内に流入していることもあり、高スキルで高賃金の少数の労働者と低スキルで低賃金の大量の労働者の二極化が進んでいる。日本も表面上の失業率は深刻ではないが、雇用の二極化はさまざまな問題に直面している。中でも、正規雇用と非正規雇用の二極化は、女性にとって厳しい。女性の雇用者に占める非正規の割合の高さは、ひとり親世帯の困窮や若い女性の貧困問題にもつながる。年末年始のウィーンで、今年の大切なテーマに考えを巡らしていた。

シュテファン大聖堂